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感想:「人間失格」「桜桃」


『人間失格・桜桃』(著:太宰治、角川文庫クラシックス)



・「人間失格」
 大庭葉蔵という男の手記を語り手が「はしがき」及び「あとがき」を添えて紹介するという体裁の小説。初出は昭和23年(1948年)「展望」6、7、8月号連載。第一回が掲載された約一月後に作者である太宰治が連載中に入水自殺したことで「太宰の遺書」と目されている。

 極度な臆病に依るものか、他人の顔色を窺わずにはいられず常に道化を演じている子供が、自尊心に無自覚なまま、まるで世間というものの奴隷のように自我を押し込めて育った結果、案の定破綻して廃人となった話。

 作者の背景を考慮せず、単純に小説としてみると個人的な評価基準としては賛否両論。
 手記という形式である為、心情の叙述に尽くしているようではあるが、そもそも特異な価値観を持つ葉蔵の一人称であり、葉蔵自身も本質的な部分で自分の心理を理解できていない為、説明不足の感がある。
 また、詳細な会話文が多い割に風景描写を始めとした五感に基づく描写が少なく、記憶より起こした「手記」としての違和感もある。
 建て並ぶ比喩表現や適切な定義付けなど、文体は至上といえる。しかし、メタな観点から見れば絵画であればともかく文章に関しての才能を持つような描写がない、しかも廃人となった葉蔵がこれだけ流暢に自己表現を為せるかという疑問が残るのは構成上の失策か。

 作中で取り上げられる「罪」に対する分析は興味深い。葉造が発明し悪友である堀木と興じていた遊戯「対義語の当てっこ」の中で「罪」の対義語について葉蔵は「罪のアントがわかれば、罪の実体もつかめるような気がするんだけど」と執着を見せており、「法律」「善」「神」「光」「愛」と思索しながらも答えを見いだせないままこの場面は終わる。
 法的な「罪」である心中未遂と、社会的或は精神的な「罪」である堕落。罪悪感すら曖昧な葉蔵はその「罪」の原因を自己・他者・環境の何れのせいにもできなかったが、「あとがき」の中で葉蔵と面識のあったマダムが「あのひとのお父さんが悪いのですよ」と発言している。
 単純に子供にとって「個人を評定し裁く世間」の代表者たる父親が、不器用に自分を押し込めて世間を受け入れようとするばかりの葉蔵を理解してやれなかったことが「罪」の原因とも受け取れるが、論文を斜め読みした限りであれば、全ての原罪としての「誕生」を「罪」の対義語として位置付けたという見解もある。

・「桜桃」
 「おもてには快楽」と装うことを信条とする小説家の男。冗談と笑いの絶えない家庭を保とうと努めるが、重度の発達障害をもつ四歳の息子の存在は決してにその努力にも限界が生じ、逃げ出るように酒場に向かう。そして、子供に与えれば喜ぶであろう桜桃を不味そうに食べ、子供より親が大事と自分に言い聞かせる。

 発達障害への対応は社会的な保障への理解は別として、精神的には未だに自分の中で折り合いがつかない部分があるので「やりきれない」以外の感想が出ない。
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